自由になるために、僕らは全部○○のせいにする

ちょっと長い話

こんにちは。
たそがれ商会のリュウマです。

この度、たそがれ商会が運営するブログを始めることに相成りました。

無理なく長湯できる温泉みたいなところを求めて

無理なく長湯できる温泉みたいなところを求めて
僕たちは、「今日の人生は昨日よりもちょうど良く」と心に留めながら日々暮らしています。
「より良く」とか「ていねいに」とか「最高に」とかではなく、「ちょうど良く」。

知れば知るほどオーガニックな食事を摂取することは地球にも人間にもいいことしかないのだけど、たまに食べるカップラーメンは心の栄養になるよね、とか。
善を突き詰めすぎても肩が凝ってしまうし、かと言って考えなしの選択が増えると、部屋も心もいつの間にか有象無象のゴミ屋敷に……。

そんな風に様々な価値観が溢れるこの世界で、自分たちにとっての「ちょうど良い」を更新していきたい。身の回りで起きたこと・気がついたこと・学んだことを一つづつ受け入れ、あちこちの価値観を振り子時計のように行ったり来たりしながら、無理なく長湯できる温泉みたいなところを見つけたいんですよね。

世の中のすべてを知ることはできないけれど、知ろうとすることはできる。
見たもの、聞いたことを、「これは自分たちにとってどうか?」と検証することもできる。

そんな僕たちの備忘録的コンテンツになりますが、日々の試行錯誤から得た気づきや学びを共有させていただこうと思います。仕事だったり、日々の暮らしだったり、旅の仕方だったり、はたまた自らの無意識についてだったりと、切り口はさまざまに。

では、第一弾のテーマとして、「自由って何?」について考えてみたいと思います。

いきなりの大ネタ感はありますが、いってみましょう。

どうしたら自由になれる?

「ねぇ、自由ってなんだか知ってる?」と、手始めに台所でくるくる動き回る妻に聞いたら、「なに、宗教勧誘? 怖い! かゆい!」と言われました。

なるほど、聞き方が悪かった。唐突すぎた。

妻に聞いておきながら、自由ってなんだろう? と考える機会は僕自身あまりないな、ということに気がつき(思いついたのは「小学校の自由研究はワクワクしたなぁ」ぐらいで)。

自由。

それは何かほんわりとして、素敵な甘い蜜のようなイメージが言葉尻にありました。

が、私たちたそがれ商会にとっての結論は、

「全部自分のせいにすれば、自由になれる」

です。

なんだそれ、甘くもなんともなさそうだ。むしろ辛そうだ。
でもご安心を。ただのストイックではありません。

一体どういうこと?


緊張と弛緩のセットで人間は快楽を感じる

緊張と弛緩のセットで人間は快楽を感じる
前提として、束縛とか制約があるから自由が生まれるのだと思います。

例えば、学校や会社で目の前にやらなければならない宿題なり仕事なりがあって、休憩時間に「ふぅ〜」と一息つく。そういう経験をしたことがある人は一定数いるのではないでしょうか?(僕は勉強が嫌いだったので、学校はそんな記憶しかありません。汗)

束縛されている状態から解放されて、束縛されていない状態、つまり「自由になる」という事象には、その前の不自由っぽい期間が不可欠なのではないでしょうか。

ちなみに余談ですが、この効果は音楽にも使われています。
曲を構成するコード進行というものにおいて、緊張した際どい和音(コード)から弛緩して、音楽的に綺麗な和音へと落ち着くことで、文字通り緩急のある音楽にしていることが多くあります。

どうやら人間は、緊張と弛緩のセットで快楽を感じる面も持ち合わせているようです。

自分で選ぶ

自分で選ぶ
では、完全な自由なんて不可能なのでしょうか?

そうではないと思います。

「自分で選ぶ」ことをすれば、全ては自由になっていくと、僕たちは考えます。

簡単にいうと、『これは自分の意志で選んだことだ』と思えるか思えないかで、自由への扉のOPEN or DO NOT OPENは決まります。

例えば、誰かの手によって生み出されるファッションの流行を追いかける中に、僕たちの思う自由はありません。ファッションって、自分で選んでいるようで、“世間の目”を気にする自分に選ばされているみたいなところがあるのではないかと思うんです。世の中の流行を知った上で、「自分が本当に着たい服、似合う服、楽でいられる服って何だろう?」と思いはせてみる過程に、僕たちの思う自由があります。

どんなに些細なことでも、自分の意志で物事を選んでいく。
たったそれだけのことで、今まではまるっきり他人任せだったことが、すべて自分ごととして見えてきます。

ちなみに私は以前会社勤めをしているとき、

「この会社で働くことは自分で選んだんだ。これは自分で選んだんだ、自分で選んだんだ、これは自分で選rslkdfgじあおえr……」

と自己暗示をかけすぎて、ちょっとした鬱状態になってしまいました。
自分の気持ちに嘘をつくのは良くない! ついても良いことない! と痛感させられる、今では人生のターニングポイント的思い出です。

ある程度素直に自分の気持ちを見てあげて、そして心から「ああ、自分で選んだものな」と思える選択が、心にも身体にも良いかと思います。

何より、自分で選ぶと基本的には人のせいにできないですよね!

他人のせいにして楽になるのは一瞬

「自分のせいにする」という言い方をしてきましたが、これは悪い意味ではありません。
「○○のせいだ」と聞くと、どうしても○○が悪者のように扱われがちですが、僕たちの思う「自分のせいにする」は、「ちゃんと自分で選んだかい?」「自分で責任取れるのかい?」と確認するようなものです(ちなみに僕たちは「責任」という言葉を「自分で選べる権利」と解釈しています。このお話はまたいつかのブログで)。

自分以外の人や事象のせいにし始めると、自分の自由を手放す営みへとつながっていくと思うんです。自分のところにあるはずの責任(自分で選べる権利)の一部を放棄してしまうことになるんです。

悪い結果の責任を他人のせいにすれば、一瞬は楽かもしれません。でもそれだと、自分以外の人や事象のお伺いを永遠に立てなければならない。

全然、自由になれません。

良いことも悪いことも、全部自分のせいにしてみる

良いことも悪いことも、全部自分のせいにしてみる
身の回りで起こるすべての出来事を、一呼吸おいて素直に見つめ、「自分で選んだことなんだ」と思ってみる。

自分にとって良いことも悪いことも、全部自分のせいにしてみる。

すると、自分の選択ひとつですべてが変わるようになります。
自分で選んで、やってみて、それで未来がやってくるんですもの。驚くべきことではありませんよね。

そして素敵な副産物として、他人から100%自由になれます。

またしても話が逸れますが、野生動物は基本的に自力で生きてますよね。
明日食える保証はない、超サバイバルです。

なので、自由とは、

「荒野の真ん中へ放り出された状態」

とも言い換えられるかもしれません。

何をするにも自分の選択ひとつにかかっている。
自由って、実はものすごく残酷なものかもしれませんね。

それでもダメなら、天災だと思う

それでもダメなら、天災だと思う
それでも僕たちは生身の人間なので、「ちょっとこれは受け入れがたいねぇ……」という出来事にもぶち当たります。
(僕の人生はそんなことばかりで、もうメンタルは政宗状態)。

全部自分のせいにし続けてどうしてもつらくなった時、僕たちはあることをします。
これをすると、大体の出来事はどーでもよくなり、昼間からビールでも飲もうや、という気さえ起こさせます。

それは、

「自分のせいにも、他人のせいにもしない」

です。

はて、どういうことでしょう?

落語のお古いところで、『天災』というお話があります。
喧嘩っ早い主人公はとにかく何でも人のせいにするのですが、それを「短気は損気、何かあっても“天災に遭った”と思って諦めろ」とご隠居に諭されます。

おしゃれをして出かけたら、いきなり雨が降ってきた。天気予報は晴れだったのに。

そんなお天道さんの気まぐれは、もはや誰のせいにもできません。

他人のせいにもできない、かといって自分のせいにするのも辛いことならば、ここはひとつ、
不意に降られた雨風で濡れちゃったようなもの、とでも思って諦めてみようか。

そんな例え話としての一つとして、天災が引き合いに出されています。

どんなことがあっても大概のことは水に流せるくらいユルく構えていることも、自分なりの自由を謳歌するコツかもしれませんね。
(果たして僕たちはどこまでユルくあれるだろうか……)

おしまい

はい、いかがだったでしょうか。

第一回のブログはこれでおわりです。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

次回からはクイズのコーナーが始まるかもしれないぐらい、気持ちの上では朗らかにやっていたいと思っておりますので、どうぞお見知り置きを。

今日よりも、明日は少し、ちょうど良く。